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2011年 11月 26日
今日の言葉
「3年前、何してた?」 ![]() 3年前、わたしの彼は、腎臓移植の手術をしていた。彼のお母さんと、友だちのScottと3人でその時の話を聞いていた時、突然彼が「3年前は何してた?」とわたしに聞いてきた。 そこでハッと気づいた。あれからまた、3年経ったんだということ。 ちょうど3年前、スカラシップ・レビューの帰り道、車の中で、それまでの3年間を思って、わたしはぽろぽろ泣いていた。 http://tomosec.exblog.jp/10177052/ そして今、それを思い出して、また感情の波がどっと押し寄せて、涙があふれた。彼の壮絶な人生に比べたら、わたしの小さな冒険なんか泣くほどのことではないのに、こんなことで感情がいっぱいになった自分が恥ずかしくて、どきどきして、それが逆に後押しして、止まらなくなった。 彼のお母さんが 「よう来たね」って。 気持ちが温かくなった。 アメリカに来て、あと数ヶ月で5年になる。また次の3年後もぽろぽろ泣いているかしら。その時はどこで何をしているかしら。 2010年 09月 09日
今日の言葉。
お家に帰ろう。 _ ![]() ![]() ![]() 小さい体を、わたしの胸に押し付けて、丸くなっていびきをかく。今朝、そのぬくもりで目が覚めた。幸せすぎて、涙が止まらなかった。 あぷいが最初に嘔吐したのは8月最後の土曜日。首を上げて、何かを嗅ぐような仕草をするのが合図。牙を出し、カッカッカッと小さい咳をメトロノームみたいに数秒刻み、後ろ足から喉にかけて体がブルブルと震えて、全身をくねらせ、ゴボゴブと奇妙な音を出しながら胃の中のものを吐き出す。猫の嘔吐は尋常じゃない。 次の日には1時間ごとに吐く有様になった。それから一週間、カッカッカッが聞こえる度にあぷいの粗相のあとを拭き回る生活が続いた。胃に何もなくなってしまったから、吐くものは胃液しかなかったけれど。 ネットで探した64 reviewsで5つ星のお医者さんは、とても優しくて、この仕事が好きでしかたないという感じ。でも、あぷいの病気の原因はすぐにはわからなくて、注射を打ったり、血液検査をしたり、一日検査入院したり、あぷいは薬漬けになった。ついには、値段が高すぎて最初は避けてしまったレントゲンを撮ることになった。また入院。 内臓でなにか布のようなものが引っかかっていて、それが邪魔しているらしいと分かった。あぷいは手術を避けるために入院して、ヘアボール用の嘔吐促進剤をたくさん飲まされることになった。 4日後、病院に迎えに行くと、あぷいは全身をわたしに押し付けて、小刻みに震えていた。診察室で2人きりになっても、目の前のご飯の臭いを嗅ごうともしない。鼻には大きな傷があって、逆毛立ち、白いホコリとも言えない塵のようなゴミが付き、首の下は濡れていて、体中から尿の臭いがした。そしてひっきりなしにくしゃみをする。風邪をひいたらしい。点滴をつながれているあぷいの体からは、いつもの太陽のにおいは消えていた。 4日間、あぷいは病院で何にも食べなかった。嘔吐促進剤ばかり飲まされても、吐くものがないから、咳だけしていたんじゃないかと思う。良い先生だけれど、このあぷいの様子を見ると、まるで時計仕掛けのオレンジだな、と思った。このまま何も食べなくては、異物を取り出せないから病院にいても意味がない。 あぷいは家に帰されることになった。 普段あぷいと話す時は、英語で話す。それが癖になっていたから。けれども昨日の帰り、車で家へと向かう大通りの角を曲がる時、「もうすぐおうちだよ。良かったね!お家に帰ろうね!」と日本語で話しかけてみたら、助手席の暗がりから小さい返事が聞こえた。 驚いたことに、家に帰るとあぷいは一目散に缶詰のご飯を食べた。食欲がないのは、病気だったからだけじゃなかったのだ。空っぽの胃袋と、この4日間の空白を埋めるように、あぷいは必死に食べて、必死にわたしにくっついてきた。そんなあぷいを見て、わたしもうれしくてうれしくて、あぷいの一挙一動に大笑いしたり、ホロッとしたり。ちょうどルームメイトもべガスから帰ってきたから、なんだか急に、部屋が明るくなった気がした。 明日、もう一度病院に連れて行く。病院に足を運ぶのは、もう何回目になるんだろう。今朝は嘔吐をした形跡もないから、たぶんもう異物は取れたんじゃないかと憶測している。実はお医者さんが、まだ膵臓病の可能性を疑っていたけれど、もう吐かないから、そんなことないと願いたい。今度こそ、これでよくなってほしい。 寂しがりで、心配性なわたしにつき合ってくれた人、本当にありがとう。あぷいも、わたしも元気です。 ![]() ![]() 2010年 06月 28日
今日の言葉。
「面倒くさい」 _ ![]() 今学期、偶然2クラス一緒の授業を取っている男の子がいて、最近仲良くなったんだけど、先週突然「とものプロフェッショナリズムを学びたいから、一緒に課題をやらないか」と言ってきた。確実にわたしのことを過大評価しているけれど、断る理由もないし、一人で課題をやるよりは良いアイデアが浮かぶかも、と思って先週は一緒に作業をすることに。 で、一緒に作業をして分かったこと。彼はとにかく、I'm screwed(しくじった)とwasted time(時間の無駄だった)を繰り返して言う。そんなネガティブな言葉を10分ごとに浴びせられて、いちいちそれに対して「大丈夫だよ」と励ましたり、「こうしたらいいんじゃない?」と提案したりしていて、もう気持ちがクタクタになってしまった。正直、彼と一緒に課題をするのはもうこりごり。 言葉は感情を形象化する。言葉に出すということは、その感情を認めるということだ。ネガティブな言葉というのは、まわりを陰鬱にさせるだけでなく、自分自身にとっても、音声として押し付けることで、ぼんやりした感情をもっと強固ではっきりした形のあるものに変えてしまう力がある。 例えばわたしはあまり食べ物の好き嫌いがない。苦手だと思っても、決して嫌いと断定しない。母親が食べ物に対して嫌いと言わせてくれなかった。にんじんを「嫌い」と口に出して言ってしまえば、本当に嫌いになってしまう。それなら言わなければ良い。知らんぷりして受け入れてしまえば良い。 別の例でいえば、アメリカに来た当初のこと。「面倒くさい」という言葉をうまく英訳できなくて、結局それを直接訳そうとすることはやめた。思えばわたしは本当に頻繁に「面倒くさい」という言葉を使っていた。ところが最近まで日本語を話す機会があんまりなかったから、「面倒くさい」という言葉を口に出すことがなく、そう感じることさえもなくなっていたことに気がついた。 この「面倒くさい」という形容動詞、パッケージの先生Aniaの言葉を借りれば、実に「怠惰」な感情表現だと思う。というのも、わたしがプレゼンの時に"I'm trying to..."と言ったとき、Aniaが「トライなんて言葉を使うな。アマチュアっぽいし、プレゼンテーションとして、とても怠惰な言葉だ」ときつく注意してきた。そのかわりに"I believe that..." "I think that..."を使いなさい、と。確かにtryという言葉はプレゼンで使うには曖昧で、何かを達成していない、自分に自信がないことを自ら告白しているようなものだ。逃げ道を作っている。このtryに対する「怠惰な言葉」という表現はとても的を射ていて、「面倒くさい」はその典型的な例だと思う。 なんで面倒くさいと思うのか? 時間がかかるから? 遠いから? 細かいから? 尺に合わないから? 何度も同じことをしなければいけないから? 簡単に(怠惰に)「面倒くさい」と一言で表現してしまう前に、こんな風にほんのもう少しだけ考えれば、ひょっとしたら何かを解決に導く糸口になったりするかもしれない。 そこで、わたしが提案したい/実践したいと考えている3つのこと。 1、面倒くさいと一言で方付けてしまうのはやめよう。 2、嫌いという言葉を使うのを控えよう。 3、理由を考えてみよう。 無理にポジティブになろうとしなくてもいい。でもどうせ同じ生きるならば、面倒がることなかれ、若者たちよ。 「人生にショートカットはない。」–Errol Gerson 2010年 05月 05日
今日の言葉。
「だからまた子どもが産めるのよ」 _ アートセンターも折り返しの5ターム目。最終週、Type 4のファイナル前日、夕方。翌朝の最終プレゼンに備えようと、アネックス校舎を出て、駐車場に向かう途中、気付いた。…鍵がない。車と家の鍵。丸ごとない。ポケットも鞄の中も、教室も、いくら探してもない。顔面蒼白。こうしているうちにもやるはずだったプリントやマウンティング、運んで帰らなければいけない8フィートのパイプとA0版の黒いフォームコアボード5枚、大きなポスター4枚…to doが頭の中を真っ黒に埋め尽くして、思うことはといえば、ああ、もうわたし駄目だ、しくじった、この学科落とすのかな…。 冷静になれば全然駄目じゃなかったんだけど、もう最後の週の水曜日なんて疲れがmaxに溜まっていて、さらに瞬発力に欠けるわたしは、完全にパニック状態になっていた。 一番なくした可能性のあるコピーセンターには5、6度足を運んで、おじさんに「まだ見つからないの?」と心配半分、呆れ半分で同情され、結局諦めてルームメイトや友達に電話して助けを求めた夜10時半。電話がきた。 「コピーセンターだけど、キミの鍵、どんなの? 超小さいUSBフラッシュメモリが付いてるやつ?」 そうです、おじさん! ありがとう!! コンピュータ・ラボから校舎の反対側のコピーセンターまで、まっしぐら。体験したことのない最高時速で走って、ゼーハー言いながら手にした鍵の束には、Acuraの鍵がまばゆく光っていた。この時の安堵感といったら。 それから数時間、12倍速で作業をして、朝のプレゼンを乗り切り、帰る頃になって、右手の親指の爪がじんじんと痛むのに気づいた。ストレスで噛みすぎて、奇妙な形にえぐれた爪を見て、今学期の象徴的な印だと思った。ただ、こうした数々の痛みの末にできたType 4の作品は、ギャラリーの真ん中に飾られ、この小さな名誉だけが、唯一、わたしに与えられた最高のご褒美になった。 学期が終わって休みに入り、1週間が過ぎた。昨日、Type 4の夢を見た。夢の中でわたしはまだ、レターヘッドを見ながら、どこを直そうかと考えていた。起きてから、もうすでにあのクラスをもう一度経験したいと考えている自分に苦笑して、ふと、昔母にした質問を思い出した。どういう状況でこういう質問をしたのか、よく覚えていないけれど、中学生くらいの頃、 「赤ちゃん産むのってすごく痛いんでしょ?」 と聞いたわたしに、母はにっこりして 「痛かったねぇ。でも痛みってね、忘れられるようにできてるの。だからまた、2人目も3人目も産めるのよ」 と答えた。わたしはぼんやり「ふうん」と返事をした。 作品作りも、勉強も、受験も、就職も、仕事も、人間関係も、恋も、結婚も、出会いも、別れも。人生には痛みがつきものだけど、たくさんの痛みを乗り越えて、それでも前へと歩めるのは、痛みを忘れられるという、すごい機能が人間には備わっているからなんだ。たくさん失敗して、たくさん恥ずかしい思いをして、たくさん傷付き、たくさん同じ間違いを繰り返し、何度も何度も辛い思いをして、それでも何か、ひとつのことをなし得て手に入れられる喜びの大きさを知っているから、いつか報われると信じているから、だからわたしたちは進んでいける。 今、辛い思いをしている人、負けないで。痛みはいつか癒える。痛い思いをしたからこそ得られる最高に甘い果実も、いつかきっとそこに、実を結んで現れる。 ![]() ![]() ![]() 2010年 03月 28日
今日の言葉。
opening ceremony _ 最近落ち込み気味の気持ち悪いコメントが続いたので、ここで少しアカデミックな話。自分用のメモに近いので長くてつまんないです。適当に流してください。 なんで近頃こんなに追われていたかというと、Avery Design Stormというワークショップに3日間参加していたから。 Averyというのは主にプロダクト/パッケージング/プリントなどを手がける大手の会社で、そこが主催、出資するイベント。product, environment, graphicsの中から各6、7名、先生から声がかかった学生が参加して、6チームに別れていくつかの課題をこなすというもの。選ばれたのは名誉なことではあるけれど、普段の授業に加えてエクストラ・ワークというだけじゃなくて、週の真ん中に開催されたので3つのクラスを休まなくてはいけないというプレッシャーがわたしの心と体を蝕みました… さて、それはさておき。 ここで学んだ/知った3つのこと。 (1)Averyはこの不況下で企業精神としてもファイナンスの面でも かなりの余裕がある。 (2)プロダクト学科の学生は恐ろしくプレゼンがうまい。 (3)わたしに足りないもの。 ひとつめ。 このワークショップ、アメリカのAveryが主催だが、本部だけではなくて地方からも数名参加しており、合計10人以上が来ていた。それがどういうことかというと、その社員達の給料はもちろんのこと、飛行機代、ホテル代に加え、材料費、参加した学生と先生の食費にコーヒー代、さらに学生には日給 250ドル×3日間という、ざっと見積もっただけでもとんでもない金額が発生しているのである。 それをさらっと出せてしまうAveryは、ファイナンスがしっかりしているだけではなくて、企業精神としてとても健全で前向きな会社だというイメージを持った。直接CSR(Corporate Social Responsibility)を訴求しているようにも感じられなかったけど、実施したいくつかのエクセサイズの節々にあるのは、美しく・楽しいだけではなく、いかにパッケージングを効率よく、機能的で、なおかつエコなものにするかであり、それはひいてはわたしたち学生への教育として働いている。さらに、そういう活動を通して、社員が統計/インタビューという形以外で直接ユーザーに関わり、ニーズやアイデアを頂戴してしまいつつ、社員自身のモチベーションアップにも繋がっているだろうということ。まさに一石三鳥な企画。 この世界の状況下でこういうイベントにお金を費やすことができるAveryは実に余裕のある会社であると思った。 ふたつめ。 前からアメリカ人はプレゼンがうまいと思っていたし、このイベント自体、優秀な学生が集まっているので当然といえば当然だけれど、それにしてもプロダクトの学生は飛び抜けてプレゼンがうまい。 おそらくその理由のひとつとしては、まずグラフィックの学生と違って、プレゼンする客体が違うということが上げられる。リサーチからの target audienceの設定やマーケット調査、そこから「必然/必要的」に導きだされる形態や機能。そうしたものはもはやストーリーであって、とてもプレゼンの構成がしやすく、聞き手も納得のいくものになりやすい。ただ、それを差し引いても、彼らのcohesiveでnarrative、しかも「楽しい!」プレゼンは、充分にトレーニングされている感を受け、聞き手を惹き付ける力を持っていた。 その点、残念なことにグラフィックの学生は1歩も2歩も遅れている。扱うものの性格上どうしてもLOOKの方に力が入ってしまって、「かっこいいね」で終わってしまうことがあるのは否めない。グラフィックにもルールはあるが、プロダクトやトランスポーテーションほど絶対ではなく、かといってイラストやファインアートほど哲学的になりきれないところが、プレゼンする上で非常に難しい。 おそらくグラフィックの学生はもっと3Dフォーム(スカルプチャーではなく、プロダクト)を学ぶべきだと思うし、現場の中でもプロダクトの生産される過程で、プロダクトにグラフィックを単にスティックするような流れ(あるいはその逆)を断ち、一緒に作り上げる機会がもっとあってしかるべきだと思う。いや、実際のところを知らないので、もしかしたらとんでもなく勘違いなこと言ってるかもしれないけど。 ただ、グラフィックの中でもパッケージデザインの他に、interactive media(Webに限らない)も実はかなりプロダクトに近いのではないかという印象がある。使い手と使われるものがあって、そこに五感が存在し、当然の結果を導きだすことを前提として、時に驚きを生み出すもの。パッケージの先生がよく「opening ceremony」という言葉を使っていて、わたしはこの言葉が大好きなんだけれど、まさにそういうことなんじゃないかと思う。わたしが本を好きな理由もここにある。 さいご。 いろいろ新しいことを学んでいるこの学期で、さらにこのワークショップを通して思い知ったこと。わたしはとにかくトロい。何をするにも遅くて、「瞬発力」がない。ゆっくりじっくり考えて物事を判断するのは決して悪いことではないと思うけれど、こんなにトロくては、非効率だし、場合によっては致命的。つまり悩みすぎなんだと思う。見栄とか、できばえとか、そんなことばかり気にして、失敗を恐れ、自分をどんどん嫌いになっていく。いくらやってもやり足りないんじゃないか、まわりがすごくうまく見える、わたしは遅れている、いつもそんな強迫観念が抜けない。 友達に"How are you doing?"と聞かれたので、いつもは"good"ってこたえるところを、精神的に参っていたので、素直に"I'm stressed out..."と答えたら、"I don't think so. You are always perfect."と言われてしまって、思わず絶句。完璧な人なんかいないよ。A+もらうのも、奨学金もらうのも、クラスのrequirement以外にエクストラ・ワークして、必死で泥臭いことして、ようやく勝ち取ってるんだよ…(ごめん。愚痴。) とにかく。このワークショップでは最終的なプロダクトを作らなくていい分、アイデアや仮定の話ができて、とても楽しかった。こういうことをもっとやって、executionにこだわらずに自分の瞬発力を鍛えていかなくちゃいけないと思った次第。 そうだよね、こういうクラスがあればいいのに。宿題もなく、最終形態も一切こだわらず、毎週いろんな学科の学生がグループワークでブレインストーミングをして、簡易モックアップを作って、プレゼンテーションをするというだけのクラス。もちろんそれはfilmされて、お互いにフィードバックをし合うという。不可能ではない。だって、このワークショップ中だって、一日に2回エクセサイズしてプレゼンしたもの。こんなクラス、良いと思いません? 以上、長くなりました。ひとりごとのような超長くてめんどくさい日記、読んでくれた奇特な人、ありがとう!:) あ〜宿題やらなくちゃ!! ![]() ![]() ![]() ※写真のステキな学校はうちの学校ではありません。うちの学校はミリタリーなのでこんなソーシャルライフありません。笑 2010年 03月 24日
![]() ![]() 今日の言葉。 「目に写る 全てのことを」 _ 暖かくなってきて、なんとなく、中村さんのことを思い出す。とても懐かしく、胸が熱くなった。中村さんはとてもストイックで才能豊かな方だった。もし今も元気で活躍していらっしゃれば、きっともう、わたしなんか手の届かない人になっていたに違いない。 2004年にあった、たくさんの悲しみと、動揺と、成長は、いまのわたしの基礎になっている。ひとしさんや佐々木さん、よこぴに囲まれて、わたしはとっても未熟で、とっても幸せだった。 そしてぼんやり生きてきたわたしは、いつの間にか、中村さんの年齢を一つ越えてしまっていて、急いで彼に追いつかなくちゃと、そう思ってどんなに追っても、越えることのできない背中を想い、とてもずるいと、また胸が熱くなる。 中村さん、新人だったわたしのこと、覚えているかな。空の上から見ていてくれるかな。桜が散ったら、セミの季節ですよ。 2010年 03月 20日
![]() ![]() 今日の言葉。 「要は自分より遥かに巨大なものを動かしていることへの恐怖」 _ 「それってさ、要は自分より遥かに巨大なものを動かしていることへの恐怖なんでしょ」 LAに来て、まともに車の練習をし始めたときに、わたしがあんまり怖がっているもんだから、友達にこう言われた。そうか。その通り。自分が何に関して怖がっているのかを一瞬で分析してくれたその友達は、鋭いセンスの持ち主だと思う。 大きなものを動かすのが怖い。得体の知れないものに触れるのは怖い。こうして触れずにやりすごしてきたものに、わたしは最近少しずつ触り始める。表面をじっとにらみ、においを嗅ぎ、そおっと指で突ついて、ぺろっとなめてみる。あぷいみたいに。するとなんだか少し、うん、ちょっと甘いぞ。いけるかもって気持ちがわいてきて、勇気が出てくる。 なんでもいいから、とりあえずやってみよう。好奇心全開にして、挑戦してみよう。もしかしたらどこかに、最高のフルーツが落ちているかもしれないから。 my very first flash website. http://tomokoogino.com/eyelian ※don't forget to click UFO and something from UFO. 2010年 02月 10日
今日の言葉。
「LAで虹なんか見たことない」 _ 1980年代のVisual Illusion Attention Experimentという映像を初めて観たときの衝撃は未だに忘れない。数人の男性がバスケットボールをパスする回数をカウントするのに集中していると、そのど真ん中を女性が通っていることにすら気付かない(見えない)という心理学的な実験映像で、前の大学の講義で観て、大きな講義室中どよめきが起こったくらい、誰の目にもショッキングな映像だった。 さて、所変わってアートセンター。2学期目だったか、Art of Researchの先生、ショーン・ドナヒューが、「LAの光と虹」をテーマにした学生に対して 「LAで虹なんか見たことないよ」 と言っていたのを聞いて、なにをこのたわけ、と思ったわけだけど、今日はこれまでで一番美しい虹を見ることができた。大きな空の右から左。完全な2重のアーチ。 いくら雨が滅多に降らないからといって、こんなに空が開けて、美しい夕焼けのある場所で、虹が見えないわけがない。 そこにあるものが見えるかどうかは、見つけようとする、よく見ようとする意識が関係しているじゃないかな。気付かないんじゃなくて、気付こうとしないのは自分自身なんじゃない? 心の目で見ないと大切なものがわからないと書いたのはサン・テグジュペリ。 こんなこと、前にも書いたかな? それにしてもきれいな虹だった。いつまでも消えるまで見ていました。みんなにもおすそわけ。 ![]() ![]() ![]() 2010年 02月 06日
今日の言葉。
Life is about choices. _ ![]() ずぅっと避け続けて来たinteractive design 1という授業。やっとのことで重い腰を上げて今タームに取ることにした。 先生は悪評高いライアン。彼はたぶん20代後半で、一昨年にアートセンターを出て、教員になったため、まだ経験が浅い。 今日はエクセサイズで「A Day in a Life」というタイトルの簡単なサイトをつくるためのフローチャートとストーリーボード(実際にイメージするデザイン)を持っていくことになっていたのだが、見事に新米ライアンの説明不足が祟って、何人かは意図しないことをやって来た。彼らは、本当は一つの画面に必ず2つは選択肢(ボタン)がなくてはいけないのに、一つしかないページをつくって来てしまっていた。するとライアン、 "You have to have at least two choices. Life is about choices, right?" (必ず最低2つは選択肢がなくちゃ駄目なんだ。生きるってのは選択するってことだろ。) なんていいながら「うまいこと言った」と思ったのか、ニヤリとしていた。 そのニヤリにはなんだかゲッソリしたけれど、言ってることは間違いない。人生は選択。そんな聞いたことのあるような言葉にも、真理は詰まっている。 あれがすき、これが嫌い、あれはわたしっぽい、これはわたしじゃない。こうして自分、あるいは他人に思われたい自分を形成していく。そしてわたしはふと、昔、大学の研究室で働いていたときにお世話になった助手さんが言っていたことを思い出した。 「やりたいことをやるべきだよ。でも30過ぎると自分がやって来たことに責任持たなくてはいけなくなるからね。」 そう。悲しいかな。大人になったわたしたちにはいつの間にか、選択に責任が伴うようになってしまった。大きな人生の岐路で見てもそうだけど、例えば今日、風邪をひいたからといって薬を飲むのか飲まないのか、そんな小さなことにも、実は積み重なって起こる何かの現象に対しての責任ってものがあったりするのかも。 …うん、でもこの話は長くなるからまた今度。 ということで、今日はA Day in the Lifeな気分。 2010年 01月 17日
今日の言葉。
「どんな風に使うかは自分次第」 _ ![]() ![]() Internet surfingという言葉がでてきたのは90年代か。もうそんな言葉廃れてしまって久しいけれど、わたしは増々その意味するところに浸かっている。 あることを調べようと何かのページを開き、分からない言葉が出てくると別のページを開く。そこで新しく何かに興味を持ってまた別のページを開く。そんなことをしているうちに最初の目的を忘れ、いつの間にか2、3時間経ってしまっている。 そのうちにわたしの中で最初の目的だったことは色あせ、どうでもよくなっていることもあるけれど、大抵の場合、最初の目的に充てるはずだったその2、3時間の間にできることを頭に思い浮かべ、「あー無駄なことした!」と悔やむ。 これはインターネットに限らず、どんなときにも起こりうる。掃除をすれば昔のノートや写真を発見して読みふけり、しまいには懐かしいからと写真を撮りだす。本屋に行けば買う予定もないジャンルの雑誌を読みふけり、誰それにお土産にしようかしらなんて要らない気をまわす。 こんな時間の無駄使い、正直言ってだーい好きだ! ・・でも、今年はちょっと自粛しようかと思う。 というのも、日本に帰ったときに父の姿を見たから。 わたしのわがままもあって、父はあの年でもまだ現役で仕事をしている。庭では野菜を耕し、読書は毎晩する。毎朝30分必ずストレッチをするし、日記も何十年も付け続けている。趣味に仕事に大忙し。「死ぬまで健康」をモットーとする父をわたしは誇りに思うし、そうありたいと願う。 そんな父が2年前に書いたという年賀状。 「時間は森羅万象、誰にでもどんなものにでも平等に24時間。どんな風に使うかは自分次第」 それを聞いて、やらなきゃいけないことを先にやろう、後悔しないことをしようと、また新年に改めて思う。
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